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2013年11月23日

[映画]「ハンナ・アーレント」

マルガレーテ・フォン・トロッタ。ドイツ、ルクセンブルク、フランス合作。2012年。
公式サイト:http://www.cetera.co.jp/h_arendt/
(※音声注意、動画あり)

2012年の映画だけれども、この記事を書いている時点では
日本では神保町にある岩波ホールのみでの公開であり、
なおかつ現時点では公開中の映画なので、
一応ネタバレに配慮しつつ、例によってまずはあらすじと簡単な感想だけ書くよ。
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ドイツ出身の政治哲学者であるハンナ・アーレントの思想と生活を、
ナチスドイツにおける全体主義の考察や、
彼女の提示した「悪」の概念に関する彼女自身の考察の過程を
中心に据えながら描いている。
アーレントの著作で言えば、『全体主義の起源』や
『イェルサレムのアイヒマン』(アドルフ・アイヒマンの裁判のレポート)が、
この映画の中心である。

ちなみに私は、恥ずかしながら、
彼女の著作は『人間の条件』しか読んだことがないのだけど、
それでも充分に楽しめた。

感情をもつ人間でもあり、同時に「考える人」でもあるアーレントの性格が、
個人的には、とても魅力的に描かれているように感じられたし、
そこに好感を持った。
堅苦しいだけの内容の映画にならないように工夫されていたのもよかった。
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以下、内容のネタバレ。
日本ではまだ公開中の映画なので、一応、白文字で書きました。
読まれる場合は、文字色を反転してお読みください。

白文字部分をドラッグ選択したり、
もしくは、Winなら「ctrl」+「A」、Macなら「command」+「A」で、
全体を選択することで、文字色を反転させることができます。
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圧巻なのは、最後の、アーレントによる教室での講義シーンだ。

雑誌『ニューヨーカー』に連載されたアイヒマン・レポートは、
ユダヤ人批判だと誤解されやすい内容であったために、
反響を呼び起こした(その多くはアーレントを非難・中傷する内容だったが)。
そうした状況の中で彼女が行った講義は、冷静ながらも熱のあるものだった。

そこでのアーレントの台詞で印象的だったのが、次の台詞である。

「ソクラテスやプラトン以来私たちは“思考”をこう考えます。自分自身との静かな対話だと。人間であることを拒否したアイヒマンは、人間の大切な質を放棄しました。それは思考する能力です。その結果、モラルまで判断不能となりました。思考ができなくなると、平凡な人間が残虐行為に走るのです。過去に例がないほど大規模な悪事をね。」(『ハンナ・アーレント』パンフレット、p. 31)

アーレントは、人間であることを拒絶することで、
つまり思考をやめることで引き起こされる悪の性質を、
「悪の凡庸さ(the banality of evil)」と呼ぶ。
そして彼女は、アイヒマンはどこにでもいるような凡庸な存在であると言い、
そのような凡庸な人間が大きな悪事を働いたという事実から敷衍して、
誰もが悪事を行う可能性があるのだということを示唆する。

次の台詞も同じシーンで発せられたのだが、こちらも印象的であった。

「アイヒマンの擁護などしていません。私は彼の平凡さと残虐行為を結びつけて考えましたが、理解を試みるのと、許しは別です。この裁判について書く者には、理解する責任があるのです!」(同上)

「許し」という言葉は、後に『人間の条件』の中でも語られている。

彼女によると、許しの能力とは、
「不可逆性の苦境から抜けだす可能な救済」(『人間の条件』p. 370)を指す。
「不可逆性」とは、「人間が自分の行なっていることを知らず、
知ることもできなかったにもかかわらず、自分が行なってしまったことを
元に戻すことができないということ」(同上)である。

「許し」は「復讐」の対極にある概念であるが(同上、p. 376)、
一方で「罰」は、許しの代替物である(同上、p. 377)。

「許し」あるいは「罰」は、
ある好ましくない出来事を終わらせるきっかけとなる点で共通しており(同上)、
それが、罰が許しの代替物だと言われるゆえんなのだと私は解釈している。

相手への敬意がなければ、許しを与えることはできない。
そのことは、アーレントが後に自著で次のように書いていることからも察せられる。

「(……)尊敬というのはただ人格にのみ関心をもつものである以上、ある人物が行なった行為をその人のために許すのには、尊敬だけで十分である。」(『人間の条件』、p. 380)

アイヒマンの思考停止は巨大な悪事を生み出した。
それゆえに、映画の中のアーレントは彼の悪事を「許す」つもりはないと述べる。
もちろんそれは、彼のことを尊敬することなどできないからであろう。
しかし、哲学者としての彼女は、同じようなことが起こらないようにするために、
アイヒマンの思考停止と悪との関係を示すことが重要だと考えた。
だからこそ、彼女はアイヒマンの理解を試みたのだし、理解する責任を感じていた。
そのように、理解の試みを続けることは素晴らしい姿勢だと思う。

先の台詞が印象に残ったと私が言ったのは、
他者への理解の試みの重要性を、
その台詞だけからでも感じることができたからである。

思考し続けるアーレントは実にかっこいいのだが、
一方で、夫の前で見せるチャーミングなおばちゃんとしてのアーレントも
また魅力的
であった。
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あと、ロッテちゃんがかわいかった。
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とりあえず、関連書籍をステマしておきますね(ステルスする気ゼロ)。

・『全体主義の起源』

・『イェルサレムのアイヒマン』

・その他の関連書、概説書


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* このブログ記事におけるアーレントの『人間の条件』からの引用は、ちくま学芸文庫から出ている日本語訳本(志水速雄 訳)からのものです。

投稿者 むすてぃー : 05:26 | トラックバック

[映画]「子宮に沈める」

緒方貴臣。日本。2013年。
公式サイト:http://sunkintothewomb.paranoidkitchen.com/
(※音声注意、埋め込み動画あり)

公開中の映画なので、まずはあらすじと簡単な感想だけ。

大阪で2010年に起きた2児放置死事件を基底として、
親による育児放棄を「孤独感」という観点から描いた作品。
「暗い」映画というよりは「重い」映画で、
見るのがだんだんとつらくなるけれども、それでも、見てよかったと思う。
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以下、内容のネタバレ。
まだ公開中の映画なので、一応、白文字で書きました。
読まれる場合は、文字色を反転してお読みください。

白文字部分をドラッグ選択したり、
もしくは、Winなら「ctrl」+「A」、Macなら「command」+「A」で、
全体を選択することで、文字色を反転させることができます。
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なぜ、見るのがだんだんつらくなったか。
それは、「上げて落とす」タイプの作品で、
最初のうちは登場人物の「幸福」そうな様子を描いているのに
だんだんと「不幸」の影が全体を支配するような作りになっていたからだ。

この作品では、
「育児放棄を引き起こすのは誰なのか」という問いは立てられていない。
提起されるのはむしろ、
「育児放棄を引き起こすのはなのか」という問いである。

この作品の場合、
自分の子供を放置して死なせるという結果を生んだのは
母親のせいであるけれども、全部が全部母親が悪いわけではない。
この事件の発生は、
子育てに一切関知しない(ように見えた)父親も遠因であり、
子育てをする親を支えるための公的サービスが不充分であったことも遠因である。
事件の原因は1人だけに、あるいは1つだけに帰されるのではない。
いろいろな要因が複合的に絡んだ結果、事件が引き起こされた。
少なくとも私はそう思う。

心理面、感情面で言えば、
(子供だけでなく)親の「孤独感」を和らげることができていれば、
この事件は起こらなかったかもしれない。
誰もが孤独に耐えられるほどの精神の強さを持っているとは限らないし、
誰もが他者に頼れる環境にあるとも限らない。
だからこそ、「孤独感」を無視してはいけないのだ。

映画では、次子である長男が先に餓死し、
長子である長女は、母親が帰宅した際に
水を張った浴槽の中で溺死させられる(ように見える描写であった)。
母親だって本当は子供たちを幸せにしたかっただろうし、
自分も一緒に幸せになりたかったことだろう。
母親が行った行為は許されるものではないだろうし、
少なくとも子供に対する償いは必要であるとは思う。
けれども、だからといって、周りの人が過剰に母親を責めるのはダメである。
この手の事件が今後起こらないでほしいと本当に望むのであれば、
「孤独感」を緩和できるシステムとはどういうものか、
そのシステムを実際に運用するにはどうすればいいのか、といったことに
多くの人が関心を持ち、意識することがまず必要なのだと思う。

この映画はまさに、
育児放棄と孤独感との関係について多くの人に関心を持たせる」ために、
この手の事件は特殊な環境でのみ引き起こされるのではなく、
どんな人でも、ふとしたきっかけで
こういう事件を引き起こしてしまう可能性があるのだということを、
映画を見た人に考えてもらえるように作られている。

この映画を見た後は、正直なところ、しばらく明るい気持ちにはなれないし、
それゆえに、デートで見るような映画ではないかもしれない。
それでも私は、この映画を見てよかったと思う。

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この映画に興味のある方は、以下のリンク先の記事もぜひ読んでみてください。
ただ、結構ネタバレがあるので、その点はご留意くださいませ。
母親を子宮に沈める社会――大阪二児遺棄事件をもう一度考えるために

投稿者 むすてぃー : 03:30 | トラックバック

2013年11月05日

[音楽]ねごとは寝て言え、とは言わせない

ねごとのセカンドアルバム『5』が想像以上によかった(ステマ)。

特にドラム演奏が好き。フィルインが超絶かっこいい。
音数の多いドラム演奏が好きな私にとっては、
実に心地よいパフォーマンスを魅せてくれるバンドである。

低〜中音域はギターの和音を鳴らし、
中〜高音域はギターやキーボードのアルペジオを鳴らすことで浮遊感を出している。
そして、その上に乗っかる、
ふわっとしつつも芯の通ったヴォーカルがまたいい感じで、心地よい。

ヴォーカル、ギター、ベース、ドラムという
基本的な編成で組まれたバンドの演奏も好きだけど、
バンドの中にキーボードが入ると音色の幅が広がるので、
それはそれでまた違った魅力が生まれる。

キーボードはRolandのJUNOやKORGのTRITONを使っているようで、
私がこれらの楽器の音色を好いているという点も、
私の中でのねごとの評価の高さに貢献しているかもしれない。
(なんだかんだで私はRoland贔屓なので)

このアルバムの中で、個人的に特に好きな曲は、
2曲目「トレモロ」と、11曲目「Lightdentity」だな。

「トレモロ」は、アルペジオを活かした浮遊感が絶妙。
また、同じ歌詞が何度も繰り返されるため、ちょっとしたトランス気分を味わえる。
「Lightdentity」は、3拍子のリズムを刻むドラム演奏がすごく好き。
時々挟み込まれる5拍子のリズムはもっと好き。
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今月13日発売のシングル「シンクロマニカ」は、
曲も割と好きだけど、何よりPVがよかった。

ようつべで公式配信されているので、見られる方はぜひ見よう(ステマ)。
http://www.youtube.com/watch?v=0SkaIke64ac
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ステルスする気のないマーケティング。略してステマ。
そもそもステルス(stealth)とは「こっそり行うこと」という意味だ。
こっそりどころか堂々としている私の行為に、
果たしてステルス性があると言えるだろうか(反語)。
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さらに言えば、私は、
すべての人に対して、私の好みの音楽を聴くように強制したいのではない。

実際に自分の耳で聴いてみて(ここが重要)、
「これ、いいじゃねぇか!」と感じた人が
さらに聴いてくれるようになればそれでいいと思う。

別にいい曲だと感じなかった人は、自分の感性にかなうような別の楽曲を
自分で発掘したり、誰かに教えてもらったりすればよい。

そのためには、自分の好みがどのようなものなのかを、
他ならぬ自分自身が明確に把握していることが必要になるだろう。
けれども、実はそれって結構難しいことである。

自分は何を好むのか、そして、なぜそれを好むのか、ということを、
明晰な言葉で説明できるということ。
それができて初めて、「自分の好みを明確に把握している」と言える。

ごり押しされるものであろうと、そうでないものであろうと、
自分がよいと思えるものは、よいと素直に言えること。
そして、なぜ自分がそれをよいと思ったのかを説明できること。

そういったことが、大事なのだと思う。

投稿者 むすてぃー : 19:54 | トラックバック