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2013年10月30日

[映画]「陽だまりの彼女」

三木孝浩。日本。2013年。
公式サイト:http://www.hidamari-movie.com/

公開中の映画なので、まずはネタバレにならない範囲での感想。

・全体的には、想像していたよりも面白かった。
・上野樹里さんがかわいい。

以下はネタバレ。
大部分は白文字で書いたので、
ネタバレ部分を読む場合は反転してお読みください。
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物語の作り方としては、伏線の張り方や、ミスリードの方法がよかった。

ここでいう「ミスリード」というのは、
真緒が記憶喪失だと真緒の両親が語ったシーンのことである。
無理矢理にミスリードをねじこむのではなく、
物語に合う形で挿入していた点はよかった。

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中学時代に転校してきた真緒が自己紹介の際に浩介の前に真っ先に駆け寄ったこと、
真緒が裸の状態で見つかったこと、
そして、「中学生の頃よりも以前の記憶がない」ということ……
「これらの理由は、真緒の『記憶障害』なるものに起因するのではなく、
真緒が人間に『なった』からなのだ」ということは、
映画を最後まで見ればわかるようになっている。

私が「真緒がネコである」ということを察したのは、
高層階から落ちる子供を助けるシーンを見たときだった。
そのように察することができたのは、伏線の張り方がよかったからだ。
うまく伏線を張っていたからこそ、唐突さは感じなかった。
「あざとい(だがそれがいい)」と思わせられる真緒の振るまいも、
ネコっぽいと言われればネコっぽい。

真緒を演じる上野樹里さんがあざとくてかわいい。だがそれがいい
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タイトルにある「陽だまり」は、
「日常の小さな幸せ」のメタファーなのかなと思いながら見ていた。
そして、その「幸せ」は、
永続的なものではなく、儚いものとして描かれていたように見える。
私は「ネコ=きまぐれ」というイメージを持ってるけれども、
そのイメージに基づいて見れば、ネコと共にやってきた幸せも
ネコのようにきまぐれに去っていったのだと考えれば納得する。
まるで陽だまりの位置が時間の経過と共に移ろっていくように、
儚く去っていったなぁと思った。

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江ノ島にある恋人の丘で、浩介が真緒に対して
「50年でも60年でも、一緒にこの景色を見られるよ」みたいなことを語るシーンは、
浩介が永続的な幸せを望んでいることをよく表しているシーンだったけれども、
この点が、この映画で描かれる「幸せ」の無常性、あるいは「幸せ」の儚さを、
対比的に際立たせていた。

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以下、気になったところ:

 映画の中にいくつかあるキスシーンのうちで、浩介と真緒の最初のキスシーンだけが結構ぎこちなく感じたけど、この「ぎこちなさ」は狙ってそうしたのか。

 真緒がいなくなってから、浩介が携帯で真緒の両親に連絡をした際に「誰だお前」的な対応をされていたけど、携帯の中に真緒の両親がアドレス帳登録されていたままだったのはどうしてなのか。

 玉川鉄二さん演じる新藤春樹は、真緒に好意を寄せていて、真緒と親しくする浩介に対して嫉妬している素振りを見せていたけれども、真緒が浩介と結婚した途端に、(若干の未練がありそうな感じには見えたけれども)あっさり身を引いていたのにはちょっと違和感があった。「新藤の真緒への想いってその程度のものだったの?」と。新藤は、真緒が気になるあまりストーカーまがいのことまでしていた割に、浩介から真緒を略奪してやろうという素振りをほとんど見せない。こうして見てみると新藤は、よく言えば「引き際を心得ている」人物として捉えることもできるかもしれないけれども、悪く言えば「本命の女の子に対してヘタレ」なだけである。
 映画の中での描かれ方を見ると、新藤は完全に「単なる主人公の引き立て役」に終わってしまっている。新藤が真緒からさっさと身を引いている点や、新藤が浩介に対して真緒の様子についての報告までしている点から、そのように推測してしまうのだ。この描かれ方だと、新藤は、(ストーカーまがいのことまでしているけれども)実はそこまで真緒のことを想っていなかったんじゃないか……という印象を受けてしまう。少なくとも自分はそういう印象を覚えた。個人的には、もう少し新藤の心情描写を見たかった。
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「最初で最後の恋(うそ)だった」というキャッチコピー:

映画を見終えて思ったのだけど、
真緒は、別にうそをついてるわけではないんじゃないかな。
うそをついていたというよりは、秘密にしていたといった方が合っているように思う。
キャッチコピーによってミスリードを誘おうとしているのかもしれないけど、
どうなのでしょう。

映画のいちばん最後で浩介は、
真緒が新たに転生したと思われる女性と出会い、
そのシーンでこの映画は締めくくられる。
(彼女がつけているネックレスには結婚指輪が通されていた)

前の真緒が人間でいられた時間は、
浩介や真緒が中1〜25歳になるまでの12年ほどということになる。
仮に浩介が、その女性とまた結ばれたとしても、
懇ろな人間関係を保ったままずっと一緒にいることは叶わないかもしれない。
真緒が新たに転生したと思われる女性と結ばれても、
彼女はまた10年くらいでいなくなってしまうかもしれない。

三島由紀夫『豊饒の海』の内容を想起しながら、映画の感想を書く:

三島由紀夫の最後の長編小説『豊饒の海』では、
本多繁邦という、物語全体のキーパーソンとなる人物が、
第1巻「春の雪」の主人公・松枝清顕が転生する人物との出会いと別れを
物語の中で繰り返している。

もしかしたら、浩介もこの本多と同じ運命をたどることになるのではないだろうか。

『豊饒の海』最終巻の本多は、年老いて死期が近づいた頃に、
清顕とかつて懇ろな関係にあった門跡の聡子を訪ねて
清顕を覚えているかと訊くのだが、聡子からは知らないと言われてしまう。
『豊饒の海』にはそんなシーンがあるため、
最後の本多はかなり虚無感が漂う感じであった。

「転生を繰り返す人と繰り返し出会う」というのは、
一見とてもロマンティックではあるけれども、
「転生を繰り返す人」というのは、いつかいなくなってしまうものである。
そうなると、同じ人物とずっと結ばれ続けることができないわけで、
その意味で、「転生」をテーマとした物語というのは、登場人物の行く末を思うと、
同じ人物とずっと一緒にいられないという運命の残酷さから
逃れることができないんだなぁと思うのであった。
そう考えると、何だかちょっと、やりきれない気持ちになる。

この映画から「切なさ」が感じ取れるのであれば、
もしかしたらその「切なさ」というのは、
前述の「残酷さ」によって構成されているものなのかもしれない。

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結論:上野樹里さんがあざといくらいにかわいい。そこがいい。あとファンタジー。

投稿者 むすてぃー : 01:39 | トラックバック

2013年10月11日

[雑事]セネガルといえば

今日は成城大でセネガル映画の上映があったらしいですが、
結局行けずじまいでした。

ウェブページを見る限りでは、映画だけがメインというよりも、
映画に表象される内容をどのように解釈しながらセネガルの歴史や観点を考えるか、
という研究を発表する研究会もあって、
「ちくしょう、面白そうな内容じゃねぇか」と思ったのでした。
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セネガルと聞いて私が最初に連想するのは、缶製品を使って作られたトランクです。
大阪にある民族学博物館で実物を見たことがありますが、
ユニークでおしゃれなデザインが印象的でした。
参考:「路傍で売られる[空き缶細工]――後篇

他にはジャンベのような楽器も知られているかなと思いますが
(一応うちには、愛知万博で買ってきた民芸品の小さいジャンベがあります)
これはセネガルだけにしかないという楽器ではなく、
セネガルの他にも、ギニアやコートジボワールなど、
西アフリカの一帯でよく使われる楽器ですし、日本でも時々目にするので、
個人的にはそれほど目新しさは感じないです。

西アフリカの地図を見ると、
とりわけ海岸沿いの国境が他のアフリカの地域に比べて細かいですが、
まだ植民地統治を行っていた時代、
当時のヨーロッパ(特に西欧)にとってこの地域は重要だったのだな、
という名残が、国境線からだけでも思わせられます。

とはいえ、もちろん国境線だけからではその地域の全容を知ることはできないので、
この地域にある問題の複雑さを、過度に単純化せず、
複雑なまま、解きほぐしながら知ることが大事だなと感じます。

そのためには西アフリカの地域の歴史、
あるいは現在の政治の在り方や外交関係を把握したり、
現地で話されている言語を習得したりする必要があるわけですが、
この地域のニュースは、日本語のメディアではそれほど報道されないので、
日本に住む多くの人に、この地域について関心を持ってもらうのは
現状ではなかなか大変かもしれません。

投稿者 むすてぃー : 17:35 | トラックバック

2013年10月05日

[雑事]「映画」カテゴリーの記事を振り返る

「映画」カテゴリーにあった記事を読み返してみた。

「初恋のきた道」とか「誰も知らない」とか、
たぶんこのブログをよく書いていたときに観たもののはずなんだけど、
どうやら感想記事を書いてなかったんだな……。

新しい記事を書くまでは、
2008年8月に書いた記事が映画カテゴリーの最新記事だったけど、
それ以降に見たので印象的だったのは、
スカイ・クロラ、映画けいおん!、劇場版まどかマギカの前後編あたりかな。
見事にアニメ映画ばっかりだ。
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過去記事を読んで、気付いたことがある。

・インド映画を観ていない。
・アフリカの映画を観ていない。
・中米、南米の映画を観ていない。

時間があれば、このへんの映画を観てみよう。
問題は、お店でこれらの作品を見つけられるかどうかだけど、
その前に、そもそもどんな映画があるのかという情報を得ておくことが先決だろう。

そういえば私は、スター・ウォーズとかダイ・ハードとか、
ハリウッド映画の定番とも言える映画を観たことがない。
バック・トゥ・ザ・フューチャーとかE.T.とか
ジュラシック・パークとかタイタニックは観たことあるけど。

振り返ってみると、自分が観てきた映画はかなり偏っているのだなと思う。

投稿者 むすてぃー : 22:27 | トラックバック

2013年10月04日

[映画]「劇場版 あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。」

長井龍雪。日本。2013年。
公式サイト:http://www.anohana.jp/

2011年にテレビシリーズが放送された、通称「あの花」の劇場版。

テレビシリーズの総集編が核になっているため、
完全な続編というわけではないのだけれど、
めんまの心象や、超平和バスターズの思い出話などが挿入されていて、
テレビシリーズ以上にノスタルジックな感じを受ける作品になっている。

ある意味ではハッピーエンドだけれども、
個人的には、切ないハッピーエンドだと思った。

投稿者 むすてぃー : 19:31 | トラックバック

[映画]「マルタのやさしい刺繍」

ベティナ・オベルリ。スイス。2006年。

スイスの小さな村に住んでいる、夫を亡くしたおばあちゃんが、
自分がかつてやっていた刺繍のスキルを活かして
ランジェリーショップを開くことを決意する。
おばあちゃんは「新しいことに挑戦するの」と言う一方で、
周囲からはなかなか同意が得られず、四苦八苦するのだが……。

おばあちゃんの同年代の友人たちも、
最初のうちは「身の程をわきまえないと」なんて言うのだけれど、
いろいろなことがあって、そうした考えがだんだんと変わっていく。
むしろ、おばあちゃん世代よりも中年世代の方が保守的で、
おばあちゃんの言う「新しいこと」に難色を示している。

もちろん、「新しいこと」ならば何でも優れているわけではないし、
逆に「伝統」として信じられているものがすべて優れているとも限らない。

しかし、夢というのは、
少なくとも夢を持つ本人にとっては新しいことへの挑戦を意味するものだし、
さらに言えば、今の状態から変化・発展することを要請するものでもある。

だから、「過剰な」保守的態度によって、
誰かに対して「変化をさせない」ように仕向けるのは、
人の才覚の発展をそこで止めてしまうことにつながってしまう。

準備をしっかりして、よき理解者が周囲にいれば、
夢をかなえるための行動はいつ起こしてもいい、年齢は関係ないのだ、
……ということを教えてくれる映画だった。
(夢が実現するかどうかは別問題なのだけど)

逆に言えば、「夢の実現」の足かせになるのは、
準備不足のまま行動をしてしまうこととか、
自分の夢を妨害してくる人の存在とか、
年齢を理由にして行動することを最初から諦める、などといったことなのだろう。

それらをクリアしたおばあちゃんの行動力にはただ敬服する。

投稿者 むすてぃー : 19:04 | トラックバック

[映画]「ル・アーヴルの靴みがき」

アキ・カウリスマキ。フィンランド、フランス、ドイツ合作。2011年。
公式サイト(音声注意):http://www.lehavre-film.com/

フランス北部のノルマンディー地方にある
港湾都市ル・アーヴルで靴磨きをする男が、
アフリカのガボンからの不法移民の青年と出会い、
周りの人と力を合わせていろいろやっていく、という内容になっている。
(「いろいろ」という言葉でぼかしましたが、詳しくはぜひ映画を見てください)

とにかく主人公の行動力がすごい。
困っている人を放っておけない性分なのかもしれない。
博愛に基づく行動で、あそこまで動けるのは素晴らしい。
私も見習いたいくらいである。

これまでのカウリスマキの映画と同様に、
登場人物にはかっこいい人もかわいい人もいない。
また、全編を通じて哀愁漂う感じがあって、決して華やかな映像ではない。
けれども、映画の中身はとても温かい。

移民の問題やヒューマニズムを扱ってはいるのだけれど、
変に説教っぽくならず、淡々と物語が進んでいくところには好感を持つし、
登場人物に過剰に語らせないから妄想の余地が残されている。
その点も個人的には心地よかった。

最後のシーンは、個人的にはやや物足りなかった。
ああいうふうになるのを「奇蹟」の一言で片付けてしまっていいのだろうか……。

投稿者 むすてぃー : 18:52 | トラックバック