『ある珈琲店(カッフェー)で思案を巡らす』

 まったく、何奴も此奴も涼しい顔をしてやがる。まるで自分がこの世に生きているのが当然であるかのように。この世界で生きることの意味に疑念を感じ、鬱々とした日々からの脱出を図る為に、死という選択肢を可能性の一つとして考えていた俺は、少し前にカウンセリングを受けた。その時俺の担当だった先生に、人間は何故こんな制約の多い息苦しい世界の中で生きていなきゃいけない運命にあるのか、と問い掛けたことがあった。そうしたら彼はこう答えた。「生きている中での苦しみが大きい分、死後はそれが幸せとなって還元される。自殺ってのは、還元のチャンスを自分で断ち切るということに繋がる。もっと前向きに、ポジティヴに生きることと向き合ってみたらどうか。斯々然々……」だとさ。確実性のない幻想世界に解決策を見い出せ、と言っているようなものだ。それはある種の現実世界からの逃避なのではないか。それこそ正に生きるという行為を正面から見つめていないのではないだろうか。俺が権威者の言葉に疑懼(ぎく)の念を禁じ得ないのは、こういうことの積み重ねのせいなのかも知れない。

 俺はふと、つい先日見たあるアメリカ映画のヴィデオの一場面を追想した。イタリア系マフィアの一味が気の弱そうな市民をパブに呼び出して拳銃を片手に借金返済を迫る、というような場面だ。……しかし、判らない。何故、此奴らは銃口を向けられた時、「近い将来の死の可能性」に怯怖(きょうふ)するのか。生きとし生ける者は例外なく、やがては星に還る運命からは逃れることは出来ない。いずれは死ぬのだ。それなのに、どうしてその与えられた運命からわざわざ離れようとするのか。まあ、渋谷の辺りをウロウロしている、何処かの神話に登場する鬼みたいな化粧をして、小規模のグループ内で共有の下らない情報のやりとりをし合っている女子高生とか、経済レヴェルが中の上と思われる家庭で育ち、大学を出ても定職に就かずに「フリーター」と称して何となく時間を浪費しているニート(NEET: Not in Employment, Education or Training)なんかは、何故自分が生きているのか、その理由を追い求めたり考えたりすること自体を、面倒の一言で片付けているようだが、俺はそんなお気楽な奴らとは違う。生きるという行為の中には何か意味が含まれているはずだ。それを、曖昧な形で無理矢理解決させたり、先に挙げた奴らのように一切見向きもしないなどというのでは何の問題解決にもならない。

 そうこう思考を巡らせているうちに目的地の駅に着いたので、俺は多くの降車客のうちの一人として電車を降りた。目的地の駅、と言ってもこの駅は俺の家の最寄り駅で、目的と言っても単に「学校から帰宅する」という、全く大したことないものなのだが。  階段を降りる時に聞こえる、不規則なリズムを刻む足音。彼等は好き勝手に自分のペイスを刻みながら歩みを進めているのだから、結果として、音楽的には恐ろしく不規則な拍子の楽曲となるのは当たり前だ。彼等は、個々にそれぞれ「生きる源」みたいなものが遺伝子の中に組み込まれ、それが原動力となって、まるで誰かに操られているかのようにそれぞれの持つ人生というものを全うしている。

 駅の改札を抜けると、そこには駅前広場の喧噪があり、そのすぐ向こうにあるスクランブル交差点からは喧々囂々(けんけんごうごう)と、人間やら自動車やら自転車やらが、これまた無秩序に好き勝手な音を出して見事な不協和音を構成している。

 思考をストップさせない為にも、俺は一切を無視しながらそそくさと帰路を歩いた。やがて、駅から徒歩七分足らずの所にある俺の住まいに着き、鍵を開けてドアを開くと、真っ先に、朝から敷きっ放しの布団へと仰向けに倒れこんだ。暫く天日干ししていなかったので、何となく湿っぽい感じがするが、それでも自分の部屋にいるという安らぎに比べれば取るに足らないことだ。

 俺は安いアパートの一階に住んでいる。外の騒音からある程度は隔離されたこの空間の中で、俺は静かに物を考える時間を手に入れる。俺はこの時に、コンピュータを起動し、インターネットで最新のニュースを一通り見て回ることを日課としている。今現在、国内や海外で起きている出来事を確認することによって、自分自身が「井の中の蛙」というカテゴリィに属さないように一応の努力はしている。氾濫する情報の海の中には、正しいものもあれば誤ったものもあるし、一見正しいように見えるが実は変に誇張されているものだって珍しくない。学校や家庭なんかでは、信じることの大切さは嫌と言うほど教えられるのに、疑うことの大切さについては何故あまり触れないのだろうか。垂れ流される情報を全て鵜呑みにするようでは新聞すら碌に読めまい。大衆が愚衆とならぬように、教育――学校教育に限らず家庭における教育も含む――をもっと改革すべきだと思うが、我が国のお役所さんはなかなか頭が固いらしく、改革はあまり進んでいないように見受けられる。

 ……等と、下らないことをぐだぐだ考えながら数分ほどネットサーフィンをしていた時、携帯電話の着メロが鳴った。どうやら知り合いからの電話のようだ。俺は携帯電話があまり好きではない。そもそも電話が駄目なのだ。自分が何か動作を行っている時に、一度コールが鳴れば、作業が途中でも手を休めて電話に出なければならない。これが単なる業務連絡とか、用件を伝えるだけのものならまだましなのだが、時折知り合いからどうしようもない長電話が掛かってくることがある。ある時は「お前くらいしか悩みを相談できないんだ」とか言って素晴らしくペッスィミズムに偏った愚痴を嫌と言うほど俺に浴びせ、またある時は「こんな良いことがあった」とか言って自慢話を延々と垂れる。そうやって俺の作業時間を一挙に奪っていく。この電話は、案の定、例のペッスィミストで自慢屋の知り合いからのものであった。最初のうちはまだ親身になって聞いてやっていたが、あまりに幾度となく掛かってくるので、一度「お前の話を聞いてると疲れるから、もう俺に電話相談するのは止してくれ」と、自分の苛立ちを隠さずに伝えたことがあったが、それでも容赦なく掛けてきやがる。幾度となく無視をしても、留守電のメッセイジにまで吹き込んでくる始末である。自分自身の持つ常識が一般常識そのものであると勘違いをしているのではないかと思ってしまう。何よりも、問題解決を他人ばかりに委ねる向上心の無さにはいい加減うんざりしていた。無論、今回のコールも俺は無視をするつもりだ。こんな面倒に構っていられるか。

 ああ畜生、なんて忌々しい! 世の中ってのはどうしてこうも苛立ちの原因ばかりが溢れていやがるんだ! そう感じるのは、単にカルシウムが不足しているからなのだろうか。……いや、牛乳は毎日飲んでいるし、塩分摂取量は多くなってしまうが、卵殻カルシウムが使われているインスタントラーメンだってよく喰っている。この苛立ちは、おそらく外側からの圧力が起因しているに違いないと思う。俺はコンピュータの電源を切って、コールの鳴りやまない携帯電話を放ったまま外に出た。気分転換になるかと思い、トートバッグへ適当に文庫やら何やらを放り込み、駅前の通りでもぶらぶら歩くために再び家を出た。

 日本の街というのは、なんという滑稽な物の集合体なのかと思うことがよくある。広告看板に宣伝された商品の名称やら、ビルディングの名前やら、ありとあらゆる所に英語を筆頭としたヨーロッパの言語が氾濫している。自分たちはまともに英語を話せないくせに、どうして街にはこんなにも英語が溢れているのだろうか。英文の宣伝文句が下らない文法ミスや綴りのミス、意味の誤謬を犯したものに出くわした時、この程度の文章を、中途半端な英語の才能を持った広告の作り手が、辞書を片手に苦心して英訳したのではないだろうか……そのようなことを思うと苦笑を禁じ得ない。俺は幼少期に親の仕事の関係でニューヨークに住んでいたことがあり、また日本に帰国した後も英会話教室に通わされていたので、ネイティヴスピーカーほど流暢でないが、自分の考えを表明したり意思疎通を図るというのは日本語でそれを行うのとほぼ同程度に行うことができる。それ故に、そういった街の看板から宣伝者の虚栄というものをどうしても感じてしまう。だが、敢えて俺は彼等の欧州言語崇拝を止めようとは思わない。好きにやればいいさ。彼等は彼等で、俺は俺なのだから。彼等が欧州言語の利用を、誤用も含めて敢えてやっているのなら、それには意図が生じる訳だ。それならば、むしろそれで良いのではないかと思う。しかし、それらの大部分から意図も何も感じられないのは、俺の感受性が不足している所為なのだろうか。

 俺は、学校帰りによく利用する珈琲店(カッフェー)に入った。例のスクランブル交差点がすぐ正面に見える位置にあるため、平日、休日を問わず利用客が多いが、今日も混んではいるが幸いにも店内席に座ることができそうだ。俺はキャラメルマキアートを注文し、それを受け取って会計を済ませ、空いていたカウンター席に座った。時間が判るようにポケットから懐中時計を取り出し、それをカウンターの上に置いた。

 珈琲店で下らない思案を巡らせるという行為は、自室でコンピュータを操作することと並び、俺にとっての数少ない安らぎの一時である。歴史上の人物で、考えることを止めてしまえば人間は終わりだとか言った奴がいた気がするが、俺は正にその通りだと思っている。俺は、――チョムスキーの言語論が正しかったと仮定すれば――言語獲得装置・ラド(LAD: Language Acquisition Device)によって語彙を蓄え驚異的に言葉を覚え始めた幼少期から、一人でボーッと何かに思案することの快感を覚えたが、それとほぼ同時に事物を疑うことの重要性も感じていた。ニューヨークでの生活が起因となった部分もあるかと思うが、それにしても我ながら随分と早熟なガキであったものだと思う。当時に比べ格段に豊富な語彙を持つようになった今でも、この頃に覚えた思案することの快感や、物事への疑いを重要視するということは、すっかり自分の隅々にまで沁み渡っている。

 俺が珈琲店に来た時によく陥る思案は、自分自身のレゾンデートルについてである。確かにどうしようもない哲学ではあるのだが、この件をカウンセラーに相談した際に受けたアドヴァイスが薄っぺらいものに感じてしまい、俺は心底失望したのを覚えている。俺がここに存在している理由はそんな小さな物事のためだけに存在しているのか。否、俺はもっと大きなことをやらなければならないのではないか、そのためにこの世界に生を受けたのではないか。俺は一流と呼ばれるような大学にどうにかこうにか入学することができた。だが、果たしてそれだけに甘んじていて良いのであろうか。社会を変えるだけの力を得るチャンスはあるはずなのに、それを逸してしまうという勿体ないことができようか。俺は、この世界に何か大きなことを起こすために生まれたに違いない……だがしかし、一体何をするために生まれたのか。神のみぞ知ることであり、俺には知る由もない事柄であるが、俺は今までこれに関する思案を抑えることができなかった。ひょっとしたら俺は、「自分探し」と称する思案で結局答えを見つけることができずにこのまま一生を終えてしまうのかも知れない。だとすると、何と虚しい人生であろうか。俺は結局「思案」のためだけに生まれたようなものになってしまう。違う! 俺の存在理由というのは、そんなに下らないものではない筈だ!

 思案の最中にキャラメルマキアートを半分ほど飲み終え、俺は思いがけず右手側に目を遣った。すると、テイブル席に座っていた、俺と同い年くらいと思しき女性と目が合った。焦げ茶色のストレイトヘアは胸の辺りまで伸び、白いスウェーターを着ていた。左手には文庫本を持っていたが、偶々(たまたま)本から目を反らした際に俺と目が合ってしまったのだと思われる。女性は、こちらに笑みを投げかけてきた。俺は慌てて目を反らした。何か自分の嫌な部分を見られたような気がしてドキッとしてしまった。それまで、思案に耽りながらゆっくり飲んでいたキャラメルマキアートを、俺は殆ど空になるところまで一気に飲んだ。そして、例の女性と目を合わせぬよう、左手側にある窓の向こうに広がる世界だけを捉えるように、顔だけを左に向けるのではなく、わざわざ椅子から立ち上がり、体ごと、やや左の方へ向けるように座り直した。

 窓の向こうには、件のスクランブル交差点が見える。忙しなく動いている群衆は、それぞれ自分自身の存在理由というものを考えているのであろうか。或いは、そのようなことは何も感じずに唯、本能に従う儘、この世界の上に存在しているのであろうか。俺は、そのような奴と出会う度に、何という哀れな奴なのかと思ってしまう。

 キャラメルマキアートをすっかり飲み干し、俺は何も考えずに移りゆく外の景色を眺めていた。俺の脳内には今、目に映っている情景の俯瞰図が描かれていて、まるで神にでもなったかのような気分であった。端から見れば、なんと滑稽な図であろうか。俺はその思案に辿り着いた時に思わず苦笑いを浮かべた。

 俺は鞄の中に入れた文庫を取り出した。適当に入れたこの本は、本屋で買った際付けてもらったカヴァーのお陰で何の本かさっぱり判らない。俺は適当なペイジを開いておもむろに読み始めた。しばらく読み進めていくうちに、見覚えのある固有名詞が出てくる。「クリスチャン」「破滅の町」……ああ、思い出した。これはバンヤンの『天路歴程』だ。高校三年の時に世界史の勉強をしていて初めて知り、「本のタイトルが何となく格好良い」という、至極つまらない理由で買って読んだ覚えがある。同じ時期に、スウィフトの『ガリヴァー旅行記』も買ったが、これも買った理由は、リリパット、ラピュタ、ヤフゥだのといった単語が自分のかつてプレイしたヴィデオゲイムの中に登場していたがために興味を惹かれて買ったに過ぎない。購入の動機は不純であったが、どちらの本も、普段自分が読んでいる現代作家の本や、所謂ライトノヴェルを読む時のように抵抗無く読むことができた。興味深いのは、今から数百年も前に書かれた本が、こうやって今の世でも読むに耐えうる内容であったり、現在の問題にも相通じる点があったりするのだ。当然ながら、今の視点からすればこれらの本は「古典」なので、純粋に文学として嗜まれるだけでなく学術的な研究対象としての本とも成り得る存在となっているが、こういった本の著者の観察力や、ストーリィの構築力には本当に頭が下がる。彼等は文章を紡ぐ作業に於ける天才であり、また自分自身の確かな意見を導き出すための思案をすることに関しての天才でもあった。才能のある人物を目の当たりにすると、まるで自慰の後に襲いかかる強烈な虚無感を覚えた時のような感覚に苛まれ、「俺は一体、何を遣っているのか」と、自問自答を繰り返せずにはいられなくなる。自問自答の中で自分なりの答えを練り上げても、結局構築された答えを実行するだけの力は生ぜず、あたかもミステイクの繰り返される無限回廊に放り込まれたかのような感覚に陥ってしまうのだ。

 俺の脳内では、どうも物事への批判を行うことが多いようだ。どうしてこうも今の世の中に対する批判が多いのだろう。誰だって、己が為の無何有の郷を追求すべく努力を怠らずに仕事やら趣味やら何やらを懸命にやってきている筈だと云うのに。まあ、人間が二人以上いる環境であればもうそこには一つの「社会」が生まれるし、人間はそれぞれに違う意思を持ち、互いの考えが不一致となればそこに軋轢が生じてしまうのは想像に難くない。下らない対立にいがみ合い、妥協の許されない状況下で、線引きすることすら儘ならない。俺なんかがその中に意見でも提供しようものなら、おそらく「貴様のような小倅(こせがれ)に意見される筋合いはない」と一喝されるだけだ。知識も経験も乏しいが、新しい考えへの理解が深い若輩者と、知識も経験も豊富だが自分の考えに頑固な老いぼれとの対立軸。「最近の若い人は教育がなってない」とか抜かす奴もいるが、どうも俺はそういう発言が気に食わない。「若い人」に分類されるうちの一部の莫迦だけを取り上げて、全体を評価するその短絡的な思考回路。批判とは、他への是正を促すと同時に、自分の行いを省みる為のものであるが、他人を責めるだけで自分を省みない、天動説的な物事の捉え方しか出来ない連中が何と多いことか。そういう連中の批判に限って個々を見ずに、一部だけを見て全体を判断し、またその批判に関する確固たる根拠を持たない。まあ、全く批判をせずロボットのように唯々諾々と従うだけというよりは幾分ましであるが、それでも「度を超えた親切」のようにお節介であり、実に厄介である。しかし、このように脳内で批判を繰り返している自分自身も、何時の間にか「厄介」な存在になってしまうのかという懸念は少々抱いている。批判をするには根拠が必要であり、その為には多くの情報にアンテナを張り巡らせ、また博学穎敏たる頭脳を持つべく努力をする必要がある。……しかし、個人対個人でさえも完全に解り合える筈がないと云うのに、集団対集団でそれを試みようとするのか。互いのプライヴェートに干渉しないことに気を遣って、よそよそしくとも個人同士の接触のみで世の中を構成すれば、敵も生まずにうまくやっていけるんじゃないだろうか。あらゆる事象を個人の責任で片付ければ、人間関係に悩むこともなく楽なのではないだろうか。わざわざ「集団」レヴェルにまで対立を濃縮するという危険を冒してまで、わざわざ「国」という政治的なまとまりの中に人間の集団を押し込めてまで、人間というのは、個人が寄って集(たか)って一つの「集団」を作らねば生きていけない仕組みになってしまっているのだろうか。俺は国籍の上では「日本人」だが、別に自分が「日本人」という民族の一員であるというアイデンティティを普段から持っている訳でもない。そもそも、幼少期にアメリカにいた所為もあるかも知れないが、自分が日本人であるという意識すら殆ど持っていない。偶々日本に住んでいるので、日本語を話しているだけのことである。それなのに、例えば犯罪多発国のアメリカで銃の乱射事件が起こったとして、日本人が何名巻き込まれて、何名が死亡とかいうのがメディアを通してニュースで流れると、死亡した日本人を哀悼し、犯人に対する憎悪が増幅される。だが、そういった大規模な事件に巻き込まれて亡くなった人の中には、日本人だけでなくアメリカ人や中国人、アラブ人、その他諸々の国籍を持つ人々、或いは、国籍を持たない人が偶々亡くなっていたかも知れない。人間が死んだことには変わらないのに、どうもこういう時に限って自分達の間に「民族意識」が生まれてしまう。俺も時折このような思いを抱くことがあるが、そんな自分に気が付いた時、何となく嫌な気分になる。自分もそういった「集団」の中に知らず知らずのうちに縛られているのだ――自分も、国家に因って教育という名のマインドコントロウルにどっぷりと浸らされた身なのだ、と痛感せずにはいられない。たとえ、普段自分に日本人としての自覚がないにしても「日本人としての模範的な思想」が全身に染み込んでしまっているのだから、何とも恐ろしいものである。

「あの、すみません……隣の席、大丈夫ですか?」

 卒然声を掛けられた。俺は思案を中断し、現実世界へと引き摺り戻された。声の主の方を見ると、そこには先程目が合った女性がいた。程良い香水の匂いを感じる。

「あ……、ええまあ、大丈夫だと思いますよ。空席ですし。」

 俺がしどろもどろに返答すると、その女性は笑みを浮かべて礼を述べ、空席であった俺の左の席に座った。その声は以前に何処かで聞いたことのあるような気がしたが、よく思い出せない。おそらくデジャヴュのような類のものなのだろうと思い、さして気に留めなかった。そうでなくとも、そのうち何かの拍子でふっと思い出すであろう。

 自分の思案が中断されたが、まあ良い。どうせこういった思案は自己満足の手段でしかないのだ。誰か第三者に、テレパシィか何かで伝わってしまい、それがメディアを通じて世に知られるようになる訳でもない。全部、俺の脳内という井戸の中で醸成された産物でしかないし、こういった考えを処分するのも俺自身だ。誰の耳に触れるものでもないのである。自分の考えをエッセイにでも纏めて出版し、世の中に意見するというのも良いかも知れないが、名も知れぬ一学生の出すエッセイを、金を払ってまで手に入れようと思う人は、おそらくそういないだろう。俺の考えていることが森羅万象の真理だとは思っちゃいないし、自分の信念が確固たる揺るぎないものであるとも言い切れない。何よりも、俺には自分の考えを完璧に纏め上げる程の文才を持ち合わせてはいないのだ。

 俺は、カップの中の残り少ないキャラメルマキアートを全て飲み干した。受け取った時はホットの状態であったのが、「温い」を通り越えて「中途半端に冷えている」という域にまで達してしまっていた。

 しかし、どうも隣の女性から漂う仄かな香りが気になって仕方がない。満員電車でたまに出合う、髪を紫色に染めた妙齢のオバサマが醸し出している、時折嫌悪感さえ感じさせる程の強烈なそれとは違い、程々な加減が心地好さを生み、その香りの為にこの場でつい眠りこけてしまいそうである。それまで思案するという行為に因って浸ることにしていた、壺中の天地のような快楽の気持ちを、こんな俗な感情に因って感じるようになってしまうとは……俺も随分と軟派になってしまったものだ。俺はそんな自分を嗤ってやりたい気分になった。俺みたいに、または俺以上に感受性の高い奴は、こういう葛藤を感じてしまうこの世界からの逃避の欲求が強いが為に、死への怯怖がないのであろう。まあ、心理学を専門にやっている訳でもないし、所詮他人のことについてなど判りっこないのであくまでも推測でしかない訳だが。誰かに迷惑を被らせるような死に方をしなければ、或いは、自分いなくなることによって負の遺産を誰かが背負わなければならないと云うのがなければ、俺は別に自殺を止めたりはしない。実際に自殺の現場を目の当たりにしてしまえば、無念さとか、憂鬱な気持ちになったりとかはする(……実際、俺は一度その現場遭遇してしまい、そのような気持ちに陥った)が、自分の意志で行ったのならば、その選択が正しかったにしろ間違っていたにしろ、個人の意志は尊重されるべきものだという考えに則って見ればそれはどうしようもない問題だったとして片付けることしか出来ない。深く考え込んでしまえば、非常に骨の折れる問題となってしまい、埒が明かない。

 ……今日はもうこれくらいにしよう。そう思い俺は席を立ち、店の出口へと向かった。席から五歩程歩いたところで、俺は例の女性に呼び止められた。振り返ると、彼女は俺がカウンターの上に置き忘れていた懐中時計をわざわざこちらまで持ってきてくれていた。俺は一応礼を述べたが、何となく恥ずかしい気持ちになり、礼を述べた後はそそくさと足早に店を出た。歩くペイスを突然上げた所為か、鼓動が速くなっているのを感じた。

 俺はこの日以降もこの洒落た雰囲気の珈琲店を利用しているが、いつの間にか単に思案する為だけの場所というものから外れたところに位置付けられ、稀に訪れるイヴェントへの仄かな期待を寄せるようになっていた。

 まったく、人間とは変な機関(からくり)を持った生き物である。どうしてこんな風に作られてしまったのだか……まあ、俺がどんなに思案したところで何も解決されやしないのだが。人間は、マクロコスモスに対してミクロコスモスと呼ばれるくらい複雑怪奇な機関を持った生物なのである。今はまだ全てを解明するなんてことは出来っこないさ。俺はあくまでも嗜みとして、今日もカウンター席で思案に耽っている。



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