Hydrangea Macrophylla
背後を顧みれば、小高い丘の上にある学校の辺りはまだ暗い。
闇を支配していた満月の光は弱まり、空の主導権を次なる光に明け渡そうとしている。
気付けば辺りを包んでいた闇は淡くなり、啼鳥が、白んでくる空に昇り始めていた。
いずれ、俺たちが歩んでいる方向から陽が昇って、後ろに長い影を作るのであろう。
昨日の夕方、俺たちが景を求めて学校へ向かっていた時のように。
……昨日? ああ、そうか。もう日付は変わってしまったんだな。
安綱と出会ったこと、漆黒の狼ども、そして、件の学校での戦い。
――今思えば、全てが須臾の間によぎった夢世界での出来事のようである。
しかし、現に俺の隣にいるのは景だけではない。安綱がいて、紫苑と名乗った女性がいる。
そして、紫苑と名乗った女性は、「遠目見眼」と言われていた俺の目を「透深眼」と言った。
「つまり、俺たちがあの得体の知れない奴等の手駒となって異世界の住人に引きずり込まれるやも知れぬ、と……」
俺はみんなと一緒に帰途の道をゆっくり歩みながら、溜め息混じりに小さく言葉を漏らした。
俺の右隣には景、左隣には安綱、そして俺達三人の後ろに紫苑がいる。
今俺たちの置かれている状況が、ゆめゆめ非現実の物語なのではないことは解している積もりである。
だが、俺たちが何者かに狙われるという、それまで非現実であったことが卒然現実となり、
今更ながら、突きつけられたそれに怯怖を禁じ得ない。
「兄貴……、何も兄貴だけが怖いんじゃない。俺だって本当のところは怖いんだ」
俺の思っていることが視えたのか、俺の右隣を歩いていた景が優しい口調で言った。
一見、何でもないという表情をしているが、よく見ればその口元は微かに打ちふるえていた。
景は、そのままの口調で言葉を継いだ。
「だけど、俺らは幸か不幸かそういう運命に巡り逢っちゃったんだから、
否が応にも立ち向かわなければいけないだろ?
立ち向かわなければ、今までの『普通の生活』なんて戻りっこないんだからさ」
「……ああ、そうだよな」
俺はそう言って、景に笑みを返した。
読心眼を以て俺の内奥を読んだとはいえ、景のこの言葉は慰みとなるのに充分なものだった。
全く、景の口達者ぶりには敵わない。
しかし、それ故にどっちが兄貴なのかと思うくらいにしっかりしたところがあって、そのお陰で助けられている部分もある。
俺はふと立ち止まって、後ろにいた俺よりもやや背が高く、身を黒橡の衣で纏い、
腰の辺りまで達する長い緑髪を持ったスレンダーな女性――紫苑の方を向き返し、話を振った。
「ところで、紫苑さん」
「紫苑で構いません」
初対面の人、それもおそらく俺よりも年齢は上であろう人に対し呼び捨てで呼ぶ、ということに俺は少し躊躇いを感じた。
俺は頭を掻きしばしの無言に退いた後、
紫苑の提示した慣れぬ慣習――呼び捨てで呼ぶこと――に従うことにした。
「……紫苑。俺たちには確かに類稀な力があり、それを欲する奴がいるのは解った。
だけど俺達のその力は、直接武器となって誰かに傷を負わせるものではない。
だから、俺は、どうやって立ち向かえばいいのか解らないんだ」
「……」
紫苑は何も答えずに、おもむろに左手で腰に帯びた鞘に触れた。
パッと見た感じで、九十センチくらいの刀が収められているであろうと思うその鞘は、
紫苑の纏う衣以上に黒く、漆でも塗られているのではないかと思うほどであった。
「この刀は、普段は飾り物に過ぎない刀ですが、いずれ貴方にこれを授ける時が来ると思います。
悪しき蟒蛇のみを断つこの三尺の秋水を……」
「……ウワバミ?」
俺たちの頭に疑問符が浮かんでいるのを察知し、紫苑は言葉を継いだ。
「ヤマタノオロチに代表される、人を呑むほどに大きな大蛇のことです。
私の得た情報に偽りがなければ、今、白の者たちを取り纏めている主導者は、
どうやら蛇神と人間とが交わって生まれた者だと言われ、
その所以からか、何やら妖しげな術を持ち得て、彼らに洗脳を施すなどしていると聞いています。
かつては、よこしまな蛇神はこの秋水を以て払うことはできましたが、……」
紫苑は二、三度咳払いをし、言葉を続けた。
「白の主導者は、蟒蛇のみならず人間の血も混じっています。
この刀は、邪悪な蟒蛇を浄化することのみを目的として作られていて、
それ以外の者に対してはなまくらの刀と同等の役割しか果たせません」
紫苑は瞳を閉じ、空を仰いだ。しばらくその状態のまま沈黙した後、目を開いた。
「今夜、また何か良からぬ影が、あの学舎に現れます。
おそらくまた厳しい戦いを強いられるかも知れません。
その際、私もまた貴方たちの前に現れましょう。
もしかすると……なのですが、今夜この刀が必要になるかも知れませんので……」
紫苑がその台詞を静かに放ったその時、冷たい北風が俺たちに吹き付けた。
朝の北風はひんやりと、そして何処となく気味悪い寒さを俺に与えていった。
「紫苑。それは今夜、白の者どもを統べる長が直々に現れるということか?」
安綱の問いに紫苑は答えた。
「確信は持てませんが……ただ、不吉で強大なものが視えたので、おそらくは」
「ふむ。先の戦いで、奴らは本気で風一と景の能力を奪おうと躍起になっただろうからな」
安綱は「ふぅ」と溜め息とも深呼吸とも取れる吐息を洩らし、空を仰いで言った。
「風一、景。言わなくても解っていると思うが、おことらも覚悟を決めねばならぬな……自分の身を守るための」
「……」
俺と景は押し黙ったまま、一度こくりと頷くだけだった。
風は、尚も俺たちに吹き続けている。
気付けば足元に長い影が出来ていたので、俺は後ろを顧みた。
東の空には、いつの間にか太陽が昇り、巨大なダイヤモンドのように眩しく大地を照らしていた。
「では、私は一旦失礼致します。また今夜、会いましょう」
紫苑はそう言うと、会釈をして俺たちと別れた。
今夜に大きなことが起こるというのは頭では解っているつもりだが、
短期間に色々なことが起こり、何だか、気持ちの整理というか、
これは本当に起こっていることなのかという疑念があった。
しかし、昨晩の件を思えば、おそらく今夜起こるという出来事も現実となって俺たちに降りかかってくるのだろう。
俺たちは、太陽が昇った方角――自分の家のある方向へと再び歩みを進めた。
今日は徹夜の状態で学校、か……。
そう思うだけで、俺はもう気が滅入る思いだった。
*
家に着くなり、俺と景は全く睡眠を取らない状態で今日の授業の支度を整えた。
とりあえず、安綱には休んでもらって戦いの疲労を癒してもらいたい。
そう思い俺は自分のベッドでしばらく休むよう安綱に勧めた。
安綱は「おことは無駄に贅沢な蒲団を使っているのだな」とか言いながらも、
夕方に学校へ向かうこと告げて、俺の勧めたベッドの中に身をうずめて休息に入った。
最早睡眠を取る時間など無かった。
俺と景は制服に着替え、朝食を食べると、寝ぼけ眼をこすりながら家を出た。
学校には、そこそこ余裕を持って到着した。
教室に入ると、今まで過ごしてきた「日常」の世界があった。
まるで、昨日の出来事は夢なのではないかと、改めて思わせられる。
席に着くと、丁度将平が教室に入ってきた。
「よう、風一」
「おはよう、将平……ふぁあ」
俺が盛大な欠伸をかましたのに、将平は苦笑いを浮かべて言った。
「お前、随分眠そうな顔してるな。目の下にクマまで作っちまってよ。ちゃんと寝たのか?」
「ああ、まあ、色々やっててね。昨日と違って朝はちゃんと食べたんだけど、ほとんど寝てなくて」
将平は、やれやれと言わんばかりの表情で俺を見ながら言った。
「優等生は大変だな。まっ、風邪なんかひかないように気を付けろよ。受験生なんだからさ」
「将平も一応受験生だろ?」
「ハハハ。でも楽しめる時には楽しんでおかなきゃ。でないと人生損してるような気がするんでね」
今まで通りの何気ない会話。
将平が笑ったのにつられて、俺も笑顔を返した。
昨日の、突然の出来事を全て打ち消すようであり、
俺は「日常」に戻ったことに何となく安堵の念を感じていた。
そうこう俺たちが他愛ないやりとりをしているうちに、佐光が教室に入ってきた。
ホームルームの始まる五分前であった。
いつも早くから教室に来ている佐光であるが、今日の登校は遅いものに感じられた。
まあ、昨日の出来事の後なのだから仕方ないだろうが……。
「あれぇ、今日は随分と遅いご出勤ですね、委員長さん」
将平が開口一番に嫌味を込めて佐光に言った。俺はというと、「おはよう」と軽く挨拶をした程度だ。
「ちゃんと時間には間に合ってるでしょ。相田君と違って私は受験勉強に忙しいのよ」
「出た。勉強勉強……そんなに勉強ばっかしてたら俺は逆に頭がおかしくなっちまいそうだぜ」
将平がヘラヘラ笑っているのを横目に、佐光は溜め息をつきながら席に着いた。
「……いいわねぇ、将平は気楽で」
「佐光ももっと肩の力抜いたらどうだ? 人生は楽しめるうちに楽しんでおかないと」
「ほら、先生来るわよ。立ってないで早く席に座りなさい」
佐光がそう言うと、ホームルームの開始を告げるチャイムが鳴り、
将平は「へいへい」と言いながら渋々自分の席に着いた。
担任が教室に入ってきた。
出席を取り、今日は何々係は何処に集合とか、授業変更の知らせを伝えるとかというのを形式的にこなしていく。
俺はその様子をボーっと聞いていた。
一睡もしていなかったのでとにかく眠くて仕方がなかった。
おそらく今夜もまた夜を徹することになってしまうだろうから、何処かの授業をつぶして睡眠を取らなければ……。
そんなことを考えていると、佐光が俺に何か小さく囁いてくるのが聞こえた。
「昨日のこと、あとで説明してもらうからね」
俺はその一言で一瞬目が覚め、そして黙ったまま頷いた。
必要事項を述べ終えた担任が教室から去り、
ホームルームの終了――すなわち、一時間目の始まりを告げるチャイムが鳴った。
一時間目は……現代文か。
現代文を教える先生は、自分の声に睡眠作用があることを知ってか知らずか、
授業中に寝ている人をそのまま放っておいている。
まあ、単にやる気のある奴らだけで授業を進めようとしているのだろうが……。
俺は、この授業を睡眠時間へと充てることに決定し、
孟浩然の有名な詩の一節の如く、授業開始早々から机に突っ伏して夢の世界へと落ちていった。
今日も、何だか長い一日になりそうである。